[PR]恋愛の悩みなら:こころtoからだで診断!

ショート・ショート・バイオグラフィー [短い伝記]

[短い伝記]

青木昆陽

あおきこんよう

日本中にサツマイモを普及させた人です。
江戸時代は飢饉が多く、餓死する人がたくさんいました。
青木昆陽は人々を何とか餓死から救いたいと思いサツマイモの栽培に目をつけました。サツマイモは虫の害が少なく、やせた土地でも育つからです。
やがて徳川吉宗の命令で、青木昆陽のサツマイモのタネイモが全国に配られ、そこで栽培されました。
このため多くの人が飢えから救われたのです。
青木昆陽は「甘藷先生」とも呼ばれています。甘藷とはサツマイモのことです。

▲TOP

新井白石

あらいはくせき

新井白石は、小さいころから非常によく勉強しました。
木下順庵(きのしたじゅんあん)という学者の推薦で徳川綱豊の先生になりました。
やがて徳川綱豊が六代将軍家宣になると、新井白石も政治に参加し家宣将軍を助けました。
将軍が変ると、新井白石は政治を引退し、多くの本を書きました。

▲TOP

伊能忠敬

いのうただたか

伊能忠敬は、日本で初めて、実測による地図を作った人です。
上総国に生まれました。
酒、みそ、しょう油を作る仕事で成功し、50歳を過ぎてから高橋至時の弟子になり、暦や測量の勉強をしました。
北海道、沖縄、伊豆七島を含めて全国を歩いて地図を作りました。
その地図は「大日本沿海よ地図」と呼ばれています。

▲TOP

大伴家持

おおとものやかもち

大伴家持は、奈良時代の政治家ですが、歌人として有名です。
三十六歌仙の一人になっています。

万葉集の編纂者は良く分かっていませんが、大伴家持が定説になっています。

藤原種継暗殺事件に関与していたと疑われました。

百人一首の中にある次の歌は、大伴家持の作です。
「かささぎの 渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける」

▲TOP

織田信長

おだのぶなが

今から400年前、日本はたくさんの国に分かれて互いに戦っていました。この時期を戦国時代といいます。
全国を統一し、戦国時代を終わらせる土台を作ったのが、織田信長です。
小さいころの織田信長は、短気で自分勝手でした。
20歳を過ぎたころから強い大名になり、敵対する大名を次々に倒していきました。
毛利氏と戦うために中国地方へ向かう途中、本能時に泊まったとき、家来の明智光秀が裏切り殺されてしまいました。これを本能寺の変といいます。

▲TOP

小野妹子

おののいもこ

「子」が付きますが男性です。
聖徳太子の命令で、遣隋使として隋に渡り、聖徳太子の国書を皇帝煬帝(ようだい)に届けました。

国書の中の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」というフレーズを読んだ煬帝は激怒しましたが、無事に返書をもらうことに成功しました。

ところが、その帰路、煬帝の返書を紛失するという大失敗をしました。
このため、帰国後に罰を受けますが、やがて許されて昇進しました。

大化の改新後は、国博士に任命されました。

▲TOP

勝海舟

かつかいしゅう

江戸時代から明治時代にかけての政治家です。
勝海舟は江戸の貧しい御家人の子供として生まれました。
外国の学問を熱心に学び、徳川幕府の海軍を作りました。
その後、咸臨丸の艦長として日本人として初めて太平洋横断の航海に成功しました。
大政奉還後は、江戸に攻めてきた西郷隆盛と話し合い、江戸が戦火で焼かれるのを防ぎました。

▲TOP

桓武天皇

かんむてんのう

桓武天皇は奈良時代から平安時代にかけての天皇です。
長岡京、平安京を造営して遷都を実行しました。

また、蝦夷征伐のたま、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を東北に送りました。

弟の早良親王を流罪にしたため、怨念を恐れ早良親王に「崇道天皇」と追号しました。
一度造営した長岡京を離れ、平安京に遷都したのは、怨念から逃れるためと考えられています。

▲TOP

紀伊国文左衛門

きのくにやぶんざいもん

紀伊国はミカンの産地です。
ある年、しけが続きミカンが出荷できなくなりました。
一方、江戸では紀伊国からミカンが来ないので、ミカンの値段がどんどん上がりました。
紀伊国文左衛門は紀伊国でミカンを大量に買いつけ、大嵐の中を船で江戸に運びました。江戸では、ミカンが高い値で飛ぶように売れたので、紀伊国文左衛門は大もうけをしました。
このときのお金を元に材木屋をはじめ、豪商になりました。

▲TOP

後醍醐天皇

ごだいごてんのう

天皇による政治を実現するために、足利尊氏、新田義貞の協力を得て鎌倉幕府を倒しました。
建武の新政を行いましたが、これに不満を持った足利尊氏が挙兵し敗れました。
建武の新政は「建武の親政」と書く場合があります。

▲TOP

聖徳太子

しょうとくたいし

聖徳太子は用明天皇の子供です。
叔母の推古天皇の補佐して日本を治めました。
日本で始めての法律である「十七条憲法」を制定しました。
能力のある人はどんどん取り立てる「冠位十二階」という制度も設けました。
聖徳太子は仏教を大切にしたので、多くの寺を建てました。
その中の一つ法隆寺は世界最古の木造建築物であり、世界遺産に登録されています。
小野妹子を遣隋使として派遣し、外国の優れた文化や学問を日本に取り入れました。

▲TOP

菅原道真

すがわらみちざね

菅原道真は子供のころから学問に秀でていました。
当時は藤原氏が力を強めていたため、これを抑えるために宇多天皇によって要職を与えられました。
その後、醍醐天皇によって右大臣に就任しました。

しかし左大臣藤原時平の陰謀によって大宰府に左遷されました。
その2年後、菅原道真は大宰府で没しますが、その後都で落雷が起こり、菅原道真のたたりと恐れられました。

▲TOP

雪舟

せっしゅう

雪舟は室町時代の僧侶であり、有名な水墨画家です。
幼くして寺に入りました。
修行中でも、絵ばかり書いて経の勉強をしなかったというエピソードも残っています。

明(今の中国)に渡り、2年間かけて水墨画を勉強しました。
雪舟が描いた水墨画のいくつかは、国宝になっています。

▲TOP

蘇我入鹿

そがのいるか

蘇我入鹿は大和朝廷の大臣(おおおみ)であり、実力者でした。
蘇我入鹿は、蘇我氏の権力をより強固にするため、血縁である古人大兄皇子を次期天皇にしようと計画しました。
そのため、次期天皇の有力候補であったライバルの山背大兄王(聖徳太子の子)を襲い、一族を滅ぼしました。

やがて、このような蘇我氏の専横を警戒する中臣鎌足(後の藤原鎌足)や中大兄皇子(後の天智天皇)によってがクーデターが計画されました。

蘇我入鹿は、三韓の使者を迎える儀式の最中、中大兄皇子ら数名によって殺されました。
この事件を乙巳の変(または大化の改新)といいます。

▲TOP

平清盛

たいらのきよもり

平清盛は、初めて太政大臣になった武士です。
平安時代、武士の地位は低かったのですが、保元の乱で後白河天皇に付き立場を強化しました。
続く平治の乱では、ライバルの武士・源氏を破り、平家全盛の時代を築きました。
一時は対立した後白河法皇を幽閉したり、「平氏にあらずんば人にあらず」と言いうほどの独裁を貫いたので周囲から反発を受けました。
やがて、勢力を巻き返した源氏が、平家打倒の準備を進める中、平家の未来を案じつつ病没しました。

▲TOP

田沼意次

たぬま おきつぐ

田沼意次は、江戸時代の老中です。
元々、低い身分の家に生まれましたが、第10代将軍徳川家治の信頼を得て、出世しました。
幕府の財政赤字を改善するため、経済政策を中心とした幕政改革を断行しました。
その結果、赤字は改善に向かったものの賄賂が横行しました。
将軍家治の死と同時に失脚しました。

▲TOP

豊臣秀吉

とよとみひでよし

豊臣秀吉は尾張の農民の子として生まれました。
諸国を放浪して様々な職業を転々とし、18歳で織田信長の草履取りとして仕えました。
秀吉は合戦のたびに手柄をたて、どんどん出世しました。
織田信長が本能寺の変で殺されると、明智光秀や他の武将を倒し、全国を統一しました。2回にわたり朝鮮出兵しましたが失敗に終わりました。

▲TOP

夏目漱石

なつめそうせき

夏目漱石は江戸時代末期に生まれた小説家です。
大学予備門という学校(今の東大教養学部)で正岡子規と出会い俳句を学びました。
やがて帝国大学に進むと、特待生に選ばれて方丈記を英訳しました。
東京帝国大学卒業後は、松山(愛媛県)で教員を務めました。
3年間のイギリス留学を経て帰国後、「我輩は猫である」を発表し好評を得たのをきっかけに、小説家になりました。
初期の作品「坊っちゃん」は、松山での教員経験が下地になっています。
49歳のとき、胃潰瘍が悪化し「明暗」執筆中に亡くなりました。

▲TOP

藤原定家

ふじわらのさだいえ

新古今和歌集、小倉百人一首の撰者です。
「ふじわらのていか」と呼ばれることもあります。
後鳥羽上皇によって歌の才能を見出され、歌会への参加を許されるようになりました。
また、後鳥羽上皇の命令で新古今和歌集を編纂しました。

▲TOP

藤原道長

ふじわらのみちなが

藤原道長は藤原家の最盛期を築いた人物です。
藤原兼家の子として生まれました。
兄が皆早死にしたこともあって、やがて高い地位に着きました。
娘と一条天皇との子が、後一条天皇になると、藤原道長も摂政となり強大な権力を手にしました。

▲TOP

北条時政

ほうじょうときまさ

北条時政は鎌倉幕府の初代執権です。
源頼朝の妻北条政子の父に当たります。

頼朝が挙兵するとこれに呼応し、幕府成立を助けました。

頼朝の死後、謀略によて政敵を打ち滅ぼし、執権として幕府の実権を握りました。
晩年は、北条家内の争いに破れ出家しました。

▲TOP

法然

ほうねん

法然は浄土宗の開祖(始めた人)です。

9歳のときに父が非業にの死を遂げたのを機に仏門に入りました。
比叡山での修行を経て、43歳で浄土宗を開きました。

後鳥羽上皇の怒りを買い、流罪になり4年間ほど四国に行きました。

弟子の一人親鸞(しんらん)は、浄土真宗の開祖になりました。

▲TOP

本居宣長

もとおりのりなが

江戸時代の中期に、日本古来の文化や思想を研究する学問が活発になりました。
これを国学といいます。
本居宣長は、医者であると同時に、非常に有名な国学者でした。

本居宣長は、伊勢で生まれましたが、医者になるために京都で勉強しました。
伊勢に戻ってから、医者を営みながら「源氏物語」「日本書紀」などの古典を研究しました。

本居宣長は「古事記」についての研究をまとめた「古事記伝」を残しました。
「古事記伝」の完成には、30年以上を費やしています。

▲TOP

極めて短い伝記集


2008/05/21

Short Short Biography (C)Copyright All Reserved, Norio Orino

[PR]薬用プロアクティブ公式サイト:実力派にきびケア、60日間返金保証